更新年月日・2016年9月16日




いのちの権利

7月末に、誠に痛ましい事件が発生しました。ご遺族や関係の皆さまのお気持ちを察すると、何とも表現しようのない思いに打ちひしがれてしまうというのが実感ですが、だからこそ、各自が改めてこのことを考え、意見を交わし合って、支え合っていくことも大切ではないかと感じ、私自身が様々な報道や世論の動向を踏まえて考えたことを、この場をお借りしてお伝えしたいと思います。

今回の事件を受けて、私が改めて考えたことは、この問題を「障害」という概念のみで解決しようとしてはならない、ということです。様々な論議が展開され、「障害」をどうとらえるかが話題となっていますが、この話の本質は一点だけだと思うのです。それは、「いのちが粗末に扱われてしまった」という事実。「障害」を理由にしたのは犯人側の論理であって、この事件の本質には「障害」は関係ありません。犯人に「人権意識」が欠けていたという一点に尽きる話だということなのです。「障害のある方にも○○のような良いところが」という論調で犯人の考え方を否定する動きも理解できますが、その論調の先には、「○○でなければ価値がない」というような誤った比較論に陥りかねない危険性があるということも、認識しておく必要があるのではないでしょうか。

私は、この機会に、改めて私たち一人ひとりのこの世への誕生が、「生まれる」という受け身の言葉で表現されていることに立ち戻るべきだと考えています。あくまでも私たちは自然界の「いのちの仕組み」の中で、この世に「生を受ける」という形で人生をスタートし、「生きる」という使命を全うするために、この世に存在しています。

「人権」とは、何かを比較して与えられるものではなく、この世に生を受けた瞬間に、一人ひとりに等しく与えられる「いのちの権利」です。悲しいかな、人は、与えられた能力を伸ばしていくうちに、いつの間にか比較を始め、あたかもこの世に価値の「あるもの」と「ないもの」が存在するかのような錯覚に陥ってしまいますが、それは間違いであると認識することが、初めの一歩だと考えます。

今回のことで、「障害」を理由に他者を否定するということが起きるならば、それは「人権」を否定するということになり、言い換えれば、「いのち」そのものを否定することにつながるのだということに、私たちは気づかなければなりません。

直接人権に関わる話ではありませんが、リオ・オリンピックで4連覇を逃したレスリング選手について、その無念さに同情するような報道がなされた際に、ある解説者の発した言葉が心に残りました。「彼女の無念な思いはわかりますが、スポーツの世界ではこれはむしろ当然のことなのです。なぜなら、今まで彼女が他の人たちに、この無念さを味わわせ続けて来たのですから。」

視点を変えれば見えてくる世の中の関係性。「優れている」という価値観だけにとらわれるのではなく、改めて私たちは、この世に生を受けた一人ひとりに焦点を当てて考えるという姿勢を、取り戻さなければならないのではないでしょうか。

子どもたち一人ひとりを大切にする教育について、学校としても改めて考えて参りたいと思います。ぜひ、皆さまのご意見をお聞かせください。

                                         (校長  田所 健司)

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